火星との交信記録

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生まれ故郷の夏を覚えていない

60手前で自殺したオヤジは県職で、その為転勤は県内に限られていた。 

オヤジが俺を生んだのは中国山地のど真ん中、三次市という街で、俺が生まれた年の人口は6万人ちょっと。昭和の一時期は10万人を超える人口だったのだが、それでもまだ俺のガキだった頃は街に活気があった気がする。 

街を離れから20年がたった。その間、千人近い人が毎年街を捨てていった。便の悪い、親戚もいない街に帰る理由はなかった。 

 

父親の3周忌の為に羽田から広島に向かう。 

法事の後、三次に行ってみる事にした。 

新幹線の乗り入れる120万人都市にある広島駅。そのピカピカの駅舎に異質な古ぼけた赤い気動車が止まっている。それが三次行きの電車だった。 

エンジンをぐぅと唸らせてて、車体を震わせながら駅を出る。 

 

徐々に周りの山が近づいてくる、空が狭くなる。山の腹の中に押し入っていくような。そして、少し開けてきたと思ったらそこが中国山地の胃袋の中、三次だった。 

 

かってはここから日本海に抜ける三江線という路線があり、胃から抜け出すことができたのだが。今は廃線となり、まさしくここは中国山地の袋小路という感がある。 

駅を出るとかっての街の面影はなく、背の高い建物は軒並み壊され、やたら見通しのいいがらんどうの街になっていた。 

 

ホテルにあった地図を見ると、ここが中国地方の胃というのはあながち比喩でないことが分かる。 

 

 

昼過ぎに投宿し街を歩いているとみるみる内に吹雪となり、周囲を囲む山々が見えなくなる。記憶の街は、街をすっぽり囲う黒い山々の頭の上を灰色の空が蓋のように被さり、まるでドブの底に暮らしているような憂鬱な風景だ。不思議と夏の風景の記憶はない。 

 

友人も親戚もいないこの街を故郷と呼べるのだろうか?

 

幼稚園の時。遊具を独り占めするのに通園バスより早く着くよう、オヤジに園に連れて行ってもらい雪道でこけた。それを現場を歩いていて思い出した。 

自殺した父は弱い奴だと思っていたが、それは強い弱いではなく、あいつは闘って負けたのだ、と。その晩ホテルで一人、外の吹雪を眺めていている時に気付いた。  

 

行き止まりの街は、これからも俺の消化不良の思い出を残してそこにある。 

俺はそこから反吐のように吐き出され、よろよろと人の群れに入っていった後、忘れ去られる。

 

おちまい